1890年にノルウェーのフレドリクスターと言う町に生まれたAmund Dietzel(アムンド・ディーツェル)は、若くしてお父さんが亡くなり、若干10歳(14歳と言う説もあります)の若さで航海に出ます。
ディーツェルが彫ってもらったファーストタトゥーは、左手の親指と人差し指の間に錨のマークなのだそうです。
船に乗船している時にタトゥーを学びます。
ディーツェルが17歳の時、乗船していたデンマークの商船が難破し
数名の他の乗組員を含め材木置き場で働くことにしました。
2ヶ月後にはアメリカのシカゴのステートストリートに移り住み、
自分で作ったタトゥーマシンを電気式のタトゥーマシンにトレードして、タトゥーを続けました。
イギリスからの移民だった『William Grimshaw』と仲良くなり、
お互いに彫り合い、すぐにディーツェルの体は首から足首までタトゥーで埋め尽くされたのだそうです。
二人はこの時代の他のタトゥーアーティストと同じようにカーニバルと一緒に旅をして、ニューヘブン、アルバニー、ニューヨーク、デトロイト、コロンバスなど様々な街でショーの合間にタトゥーを彫ったり、タトゥーだらけの自分達を写した写真を販売したりしていたのだそうです。
1916年にミルウォーキーに引っ越し、新しいタトゥースタジオをその頃に新しく建築されたウィスコンシンホテルの隣に構え、その地区で一番のタトゥーアーティストと言われるようになりますが、他の街にも赴いてタトゥーを彫る事を続けていたそうです。
1940年代に同じステートストリートのもっと大きな場所に移り、第二次世界大戦の頃には12時間体制でディーツェルを含め4人ものタトゥーアーティスト達によって、止む事なく訪れるアーミー達にタトゥーを彫っていたのだそうです。
一日になんと10人から12人のお客さんを彫っていたのだそうです。
工場や醸造所やハーレーダビッドソンで働くブルーワーカーと呼ばれる労働者階級の人達は、有名なディーゼルに彫ってもらう事を誇りにしていたそうです。
数十年たった今、ディーツェルにタトゥーを彫ってもらった人を見ると他の人の作品と比べクオリティの違いは明らかで、ディーツェルの作品に描かれた文字などは今でも解読する事ができるそうです。
1963年にそれまでは17歳以下のタトゥーを禁止していたイリノイ州の法律が改正され、20歳以下へのタトゥーが禁止された事で、多くの彫師たちは他の街に移り住みますが、ディーツェルは変わらずお店を続けました。
73歳の時に友人であった『Gib “Tatts” Thomas(タットゥ・トーマス)』にお店を売って、二人仲良くお店を続けていましたが、その後1967年にはミルウォーキーでは、タトゥーが禁止され、抗議の声もむなしく、二人はお店をたたむことになります。
83歳の誕生日を迎える3週間前の1974年の2月9日に、白血病の為に亡くなりました。
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